くすの木幼稚園 副園長 関 恵子
ちょうど10年前になりますが、知り合いのお母さんに「学校、最近行ってないとよ」と、相談されたことがあります。お互いの子どもが中学生になってすぐくらいの頃でした。びっくりしました。担任の先生とうまく関われない。そんな理由だったかと思います。あんなことがあった、こんなことがあった、だからこうした、ああした…。相談を受けた、と書きましたが、私が特に何かアドバイスができるわけでもなく、ただ話を聞いていたにすぎません。うんうん、そうね、そうなん?うん、でも大丈夫よ、きっと行けるよ。…その時、私が発した言葉はこんな感じでした。なんとも無責任…。でも、願望を込めた「きっと大丈夫」以外なんと声をかけて良いのかわからなかったのです。
長女と保育園が一緒でしたし、次女同士も同級生でしたので、保育園や小学校でそのお母さんと顔を合わせる機会も多く、会えば挨拶だけでなく他愛ないおしゃべりもしました。ですから、お子さんが学校に行かないという事実は、私もショックでしたし、本当に大変だろうと自分に置き換えもし、胸が痛くもなりました。何とか、学校に帰ってきて欲しい。「今日は来てたよ」長女からそんな話を聞けた時は、「良かった!」と安堵していました。
ところで、相談を受けた当時は、ガラケーからスマホへと変わりつつある頃で、小学生でキッズ携帯のようなものを持っている子は、まだ少なかったと記憶しています。でも、そのお母さんは、我が子に小学校から携帯電話を持たせ、中学校に入る頃にはまだほとんどの子どもが持っていないスマホを持たせていました。その子が、学校を休みたいと言えば、特に体調が悪くなくても休ませていた記憶があります。保育園時代、小学校時代、我が子に何かトラブルがあれば、我が子の代わりに先生に話をしに行く姿をよく見かけました。
…それは、きっと、間違いなく『我が子を想って』の行動。仕事もしていらっしゃいましたので、『安全のために』携帯を持たせていらっしゃったのだと思います。「あれが欲しい」「これがイヤ」「それしたくない」「先生にお願いして」、そんな我が子の気持ちを流さず受け止めて、「応えてあげたい」と思っていらっしゃったのだと思います。いつもいつも、そのお母さんは、その子が言葉にしないことでも、その子の欲求を汲み取り、その子の欲求を満たしてあげようと行動していらっしゃいました。
でも。
欲求を満たしてあげることが、イコール我が子を想うこと、なのでしょうか。
「友達としっかり遊ぶ時間を、携帯やスマホを触っている時間で削られたんじゃない?」
「休みたいって言ったら休ませてたよね。簡単に休ませない方が良かったんだよ」
「友達とのトラブルとか授業のこととか学校の先生によく話しに行ってたよね。でも、
子どもに自分で解決させてたら良かったと思うよ」
…どれも、他人が簡単に口を挟めることではありません。でも、誰かが言ってあげていれば、どこかでこんなアドバイスを受けていれば、もしかたら、学校に行けない日は来なかったかもしれません。…かも…ですが…。
学校に行けなくなった理由を決めつけることなんて、きっとできない。でも、「目の前の我が子の欲求を満たしてあげたい」と思う親心と、「未来の我が子の苦しみを排除してあげたい」と思う親心は、その根幹にある愛情は同じでも、その行動の結果は決して同じではないと思います。
我が子が、どんな未来を歩くのかなんて誰にもわからない。子育てのマニュアルなんかどこにもない。でも、今月の『園長メッセージ(理事長Blog)』に書いてあった、園長先生の
我が子を受け入れることは親として無条件に必要なことですが、
機嫌を取り、欲求を満たしてあげることとは少々違います。
という言葉。
この言葉をあの頃あのお母さんが聞く機会があったなら…。
いいえ、あの頃だけの、あのお母さんだけの、ましてや学校に行けない子だけの、話しではありません。私自身、園長先生のメッセージを読みながら、反省することがたくさんありました。もう社会に出た長女にも、ハタチになった次女にも、親として反省することだらけ。チクリチクリと胸に刺さる言葉。ああ、機嫌とったなぁ…欲求満たしてごまかしたことあったなぁ…。あの頃も、きっと同じようなメッセージを私は受け取っていたはず。でも、そのメッセージが耳に痛くて、受け入れたくなくて、聞く時と耳を塞ぐ時と…と、自分に都合良く取捨選択していた気がします。
耳に痛い話をしてくれる人がいることや、耳に痛い話を聞く機会があるって…幸せなことなんだと、きっと未来で気づきます。どうか皆さん、その幸せをつかみ損ねないようにしてくださいね。子育てにマニュアルはありません。でも、園長先生のあの言葉は、マニュアルに匹敵する、我が子のより良い未来を創るための言葉だと…私は思います。